大部分の鉄道ファンは物心ついた頃から電車や汽車の魅力に取り付かれている。私も幼い頃、蒸気機関車に乗りたく父にねだって汽車に乗せてもらった事を覚えている。大阪岸和田育ちの私には列車と云えば南海電車イメージしかなく、煙を吐いて大きな動輪が廻って走る蒸気機関車は憧れの乗り物だった。そんな私を父が連れていってくれたのは南海の終点・難波駅から歩いて10分程の関西本線湊町駅(現・JR難波駅)。当時の湊町駅は道頓堀川の西にあるどちらかと云えば寂れた場末の雰囲気が漂う始発駅だった。父はその湊町からの天王寺駅まで私を汽車に乗せてくれた。



時間にして10分余り、それはそれは短い汽車の旅だったが私にとって蒸気機関車に初めて乗る至福のひと時だった。そんな郷愁に誘われ、久し振りに関西本線に乗ってみた。当時地上駅の始発駅・湊町は現在名前をJR難波駅と変え、大阪シティエアターミナル(OCAT)ビルの2面2線の地下駅に変身している。関西本線は大阪と名古屋の2大都市を奈良経由の最短距離174.9キロで結ぶJRの幹線だが、最近はとみにその存在価値が低下している。


現在の関西本線は亀山駅、加茂駅を境界として運転系統が3区間に分割しJR難波ー加茂間は昭和63年から大和路線という愛称でアーバンネットワークに組み込まれた。加茂ー亀山間は単線非電化のローカル線で1~2両の気動車(キハ120)よる地域輸送が主流。そして亀山ー名古屋間はJR東海に属し昭和36年に電化された。そんな関西本線の現状を頭に叩き込み、最も隆盛期の面影を今も残す非電化区間、加茂ー亀山の大いなる関西本線のローカル線に乗るため加茂駅に出向いた。
加茂駅へは大和路快速の乗れば天王寺駅から1時間弱で到着する。加茂駅は関西本線の奈良方面と亀山方面との乗り継ぎ駅で、ここから大阪方面には4~8両の電車が、亀山方面には1~2両の気動車が発着するというかなり極端な駅で、路線風景もここを境に一変する。そんな加茂駅を12時42分に発車する2両編成のキハ120系気動車に乗り換え亀山を目指した。


昼間1時間1本のダイヤで車内はお年寄りやハイキングに出掛ける客でほぼ満席。列車は木津川に沿って関西本線で最も美しい区間を走る。同乗のお年寄りは「昔は桜のトンネル抜ける爽快な気分だった」と話す。やがて列車は桜と渓谷美で知られている笠置駅に着た。次の大河原駅は2面2線の列車交換可能駅で嘗て関西本線に長大編成の列車が走っていた事もあってホームや交換設備の有効長が長い。広い構内、風格ある駅全体からは急行「かすが」や「大和」が発着し賑わっていた往時の面影が忍ばれる。




列車は梅林で有名な月ヶ瀬口駅で大勢の乗客を降ろし、島ケ原駅を過ぎて加茂から40分ほどで伊賀上野に着いた。伊賀上野駅は市街地から離れた田園地帯にある駅だが、この1番ホームには街の中心部へ向かう伊賀鉄道が発着している。




伊賀上野を出てしばらく走ると右側に川が近づいてきて並行する。木津川はこのあたりで柘植川と呼び名を変える。列車はまっすぐ東に走って広い構内の佐那具駅に停車したが乗降客ゼロで出発。落ち着いた車内の右手車窓に名阪国道を見て走りやがて1面2線の新堂へ、乗客は加茂駅出発時の半分になっていた。キハ120系気動車は名阪国道を離れて山間部に入り左手に草津線が見えてくると柘植駅だ。

2面3線の広い構内の柘植では半分ほどの乗客が降り、3番線に停車中の草津線電車からは多く人が乗り込んできて、キハ120の座席はほぼ満席になった。 構内の関西本線ホーム端には、柘植駅の標高243mを示す木製の標柱が立っている。柘植で5分程停車して列車は亀山に向けて発車。
車内のロングシートに座る乗客に春の日差しが差し込む。5分程走って列車は中在家信号所に差し掛かる。昔はこの鈴鹿山麗にある峠、加太越のためにここを走る列車はスイッチバックの中在家信号所を通って往来していた。そんな感慨に耽る間もなく列車は長い加太トンネルを抜けて2面2線で列車交換可能な加太駅に到着。




加太駅は市街地から離れているためか1日の乗降客数が62人(三重県統計)と聞くと、関西本線の今の置かれている姿を垣間見る感じだ。列車は次の関駅で大勢の年配のハイカーを降ろした。関は東海道53次の47番目の宿場町で「関宿伝統的建造物群保存地区」に指定され、現在は東海道の宿場町を修景した町並みがあって亀山市の観光地として親しまれている。駅舎は「関宿ふるさと会館」を兼ね、中に観光協会の事務所もあって簡易委託の出札窓口業務も受託している。関から列車は一気に走って14時06分亀山駅3番ホームに到着した。


亀山駅はJR西日本とJR東海の境界駅で関西本線ここから名古屋へはJR東海の管轄下に入る。関西本線ローカル線(非電化区間)の旅はここで終わる。関西本線に長大編成の特急や急行列車が走り、東海道本線の優等列車や近鉄特急と大阪ー名古屋間のスピード競争に邁進していた頃、関西本線は輝いていた。しかし新幹線の開業やモータリゼーションの到来は関西本線を苦境に追い込み大いなるローカル線の域にまで追いやった。交換設備の長いホームや構内、そして風格ある駅舎、寝台急行大和や急行春日の発着する往時の面影が走馬灯のように甦る。今回はそんな関西本線に乗っての郷愁鉄道の旅だった。
