蝉の鳴き声が耳に染み入り、夏の太陽が照りつける昼下がり、窓をいっぱい開け冷たいスイカを食べながら新潮文庫に収められている内田百閒の阿房列車を久しぶりに読み始めた。夏目漱石の門下生で芥川龍之介とも親交のあった岡山出身の内田百閒は鉄道旅行をことのほか好んだ作家だった。代表作、阿房列車の書き出しでこう書いている。
『なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ
行って来ようと思う』。
さしずめ今なら青春18キップで全国の鉄道を乗り歩いていただろう。そんな内田百閒に触発されて今回は「第二阿房列車」の新潮文庫を携え、岡山県東部の和気町を訪ねてみた。和気へは岡山駅から普通列車に乗ると30分ほどで到着する。列車は岡山駅の3番4番ホームから30分に1本の割りで発車している。朝のラッシュも一段落した9時33分、710M普通車に乗って岡山駅3番ホームから出発した。車内は近場の和気行きのせいか座席が半分ほど埋まる程度の乗客。相生や姫路行き列車になるとこうはいかない。ましてや青春18キップの有効期間になると、いつも岡山-姫路間の普通列車は満員だ。
列車は岡山駅発車後右に曲がってしばらく走ると旭川に差し掛かる。旭川橋梁から右車窓を見ると烏城(岡山城)の美しい風景が目に入る。旭川を渡りきると今年3月に開業した西川原・就実駅に到着した。この駅は就実学園が建設費用全額提供したこともあって、駅名を巡ってJR西日本と折り合いが着かず開業が半年ほど遅れた。正式には「西川原駅」通称「西川原・就実駅」という折衷案でやっと開業にこぎつけた因縁の駅だ。
列車は 空川の百間川を渡って高島駅に到着。この駅も昭和61年に開業した比較的新しい駅。そして岡山駅を発車し9分で東岡山駅についた。この駅は明治24年に開業した古い3面4線の駅で、駅名も開業当初の長岡駅から西大寺駅、そして現在の東岡山駅になった。この駅は赤穂線の起点駅で近くに高校もあって乗降客は多い。東岡山駅を出た列車はまっすぐ備前平野の中を大きく育った稲穂を見ながら岡山市郊外のベットタウン駅、上道を過ぎ岡山県東備の中核・瀬戸駅に着いた。
瀬戸駅は明治24年に開業し昭和30年代までは周辺で栽培された桃の出荷駅として多いに賑わっていた。また山陽新幹線が岡山開業するまでは「急行鷲羽」が停車するなど岡山県東備地区の基幹駅として活躍。木造モルタル造りの駅舎は2010年に南口が設けられ弧線橋の改築やエレベーターの新設で大きく瀬戸駅は変身した。列車好きの内田百閒は第二阿房列車の中でこう書いている。『瀬戸駅を通った時分から、又座席の下の線路が、こうこう、こうこうと鳴り出した。遠くの方で鶴が啼いている様に聞こえる・・・快い諧音であるけれど、何となく悲しい様な、淋しい様な気持ちがする』。これは25mレールの継ぎ目を通過する時の「ガタンゴー ガタンゴー」と言う音のことだろうか。現在この区間はシームレスのロングレールの使用で百閒先生の聞いたという鶴の啼き声は聞けない。瀬戸駅から4分程で走って万富駅へ9時54分に到着した。
万富で途中下車してこの駅から南2Kmにある桜や紅葉の名所として知られている三谷公園へ出かけた。三谷公園の一角にある金剛童子社は、天正年間に吉井川を往来する高瀬舟の船頭さん達が安全を祈願して船神様を祀ったのが始まりと伝えられている。百閒も子供の頃祖母とよくお参りした神社で、随筆集「阿房列車」にもこの金剛童子社の事が書かれている。境内には百閒の句碑もあり、何の用事がなくても、百閒ファンでなくても、この夏には是非一度訪ねて欲しい神社だ。
12時6分、再び列車に乗って万富駅を出発。駅を出て右にカーブすると吉井川橋梁に差し掛かる。この橋梁は途中で左に曲がっているため、貨物列車など長編成の列車を撮影する絶好のポイントとして鉄道ファンにはよく知られている。
それ以前に百閒先生はよほどこの曲がった橋梁に興味があったのか、新潮文庫の「第二阿房列車」に『吉井川の鉄橋は川の中で曲がっている・・・子供の時、高等小学校で先生から教わった。先生の話では川の中で曲がっているのは吉井川の鉄橋だけだと云う事である』等々、吉井川の曲がった鉄橋の話が出てくる。そんな阿房列車に思いを馳せていると列車は熊山駅を過ぎて12時15分終点・和気駅に到着した。
和気駅では岡山方面からの普通列車の半数近くがこの駅で折り返しとなる。嘗ては同和鉱業の片上鉄道が乗り入れ和気駅は岡山県東部の物流拠点として賑わっていた。当時3面5線だった構内も今は片上鉄道のホームが撤去され2面3線に整備され、その跡に列車事故を想定したJR西日本社員訓練用の実設訓練センターが設けられている。
駅正面は古い建物が立ち並ぶ少々手狭な和気駅前だ。和気町散策のお勧めは300円出してのレンタサイクル。鉄道ファンには懐かしい鉄道風景をゆく片鉄ロマン街道のサイクリングを、和気の町をのんびり散策したい人には和気清麻呂を祀る和気神社と藤公園へのサイクリングかお勧め。
和気神社周辺には和気町歴史民族資料館もあって和気清麻呂の活躍した古代ロマンを訪ねるのも面白い。そしてお昼は吉井川沿いにある和気鵜飼谷温泉での日帰り入浴(500円)と食事が楽しい。この日私は良質な温泉と涼味満点のそうめんセット(980円)に癒された。これから和気へ出掛ける人は巨大な「和」の火文字が夜空を焦がす「和文字焼き祭り」の8月16日に出かける事をお勧めします。
今回の和気町への旅は万富駅での途中下車を含めても岡山駅からは超近い。百閒先生の言葉を借りるならば「今様夏光山陽特別阿房列車」の旅だった。