JR山陰線の餘部鉄橋が2010年の8月、98年の歴史に幕を閉じた。朱色の美しい橋脚で京都と山陰地方をつなぐ鉄路を支え続けてきた鉄橋は、今回新しいコンクリート橋の「餘部橋梁」に架け替えられ新たな歴史を刻み始めた。そんな新生「餘部橋梁」を見たくなって先ずは岡山駅から鳥取駅を目指した。岡山から鳥取へは特急「いなば」で2時間弱、普通列車の智頭線経由では3時間半前後で到着する。この日は岡山駅6時47分発「特急いなば1号」に乗車し、鳥取駅へは8時38分に到着した。そして鳥取では9時発の臨時快速列車「山陰海岸ジオライナー」に乗車。この列車は4~6月までの土日祝に豊岡まで運行している臨時快速列車で浜坂駅で乗り換えなしに豊岡まで直通運転している。この時期、鳥取駅ではこの山陰ジオライナを手始めに「山陰海岸ジオパーク」を大々的にPRしていた。「ジオパーク」? 聞きなれない言葉に列車で同席した女子高校生が気軽に教えてくれた。彼女によると『ジオパークとは科学的に貴重な地質遺産を複数含む自然公園のことで、その地質遺産を教育・観光・産業などに活用して地域の活性化を目的にしている』との事。そして『鳥取砂丘から兵庫県の竹野海岸にかけての山陰海岸が昨年10月、世界ジオパークネットワークに加盟承認された』と丁寧に説明してくれた
鳥取駅を出発した2両編成の山陰海岸ジオライナーは市街地を高架で通り抜け、天神川の川沿いをしばらく走って1面2線の無人駅・福部へ。女子高生と山陰海岸の話に興じている間に列車は大岩を過ぎ岩美駅に到着。岩美は山陰の海岸美とのどかな温泉情緒が漂う町だ。岩美駅からは左側の車窓に美しい山陰の海が見えてきた。列車は順調に走って陸上トンネルを抜けると兵庫県。列車は鳥取駅から36分ほどで浜坂駅に着いた。浜坂駅はローカル列車の発着基点駅でこれまで特急「はまかぜ」の一部を除いて全ての列車は上り下りともこの駅で乗換えだった。しかし今回の快速「山陰ジオライナー」はすぐに豊岡に向けて出発。あわてて筆者はここで名物の駅弁を購入。列車は久谷を過ぎ9時49分目的地の餘部駅に着いた。餘部で下車したのは3人だけ。餘部駅はホームから日本海・香住海岸を見渡すことの出来る風光明媚な高台にある駅だ。コンクリート打ちのモダンな待合室には近畿の駅百選認定駅のプレートが掲げられ旅の思い出を書き綴ったノートがベンチに置かれていた。先ずはその横で浜坂駅で買った米田茶店の駅弁「余部鉄橋物語」を食べ始めた。駅弁には「ありがとう さようなら餘部鉄橋」の一文が添えられていた。
それによると餘部鉄橋は明治42年工事に着工し完成までに33万円(現42億円)を超える資金と延べ25万人の人員が投入され、トレッスル橋としては国内最大の鉄道建築として明治45(1912年)に完成した。米田茶店の先代、米田弥右衛門はこの地の鉄道敷設に尽力しその功績により浜坂駅に関する仕事の権利を取得。当時の人は『全長309.4m、橋脚の高さ41.5mの餘部鉄橋に新しい日本を夢見、それはまた明治の浪漫だった。そして米田弥右衛門もそのうちの一人だった。』と一文は結んでいる。あれから98年、幾多のドラマを繰り広げながら「餘部鉄橋」は2010年8月、2代目のコンクリート橋「餘部橋梁」へと変身した。
「餘部鉄橋」は2010年8月、2代目のコンクリート橋「餘部橋梁」へと変身した。駅弁を食べ終った頃、ホームに下り浜坂行き列車が入線。列車からは20人ほどの観光客が賑やかに下車してきた。ホームで記念写真を撮ったり橋梁や香住海岸を眺めたり、餘部駅観光スポットの一面を垣間見る一瞬だ。観光客に話しかけると昨夜は城崎温泉で1泊、今日は城崎駅から列車で餘部駅へ、そしてこの後は回送されてきた観光バスに乗り換えて山陰海岸ジオパーク館や鳥取砂丘巡りとの事。観光客が下に降り、列車が去ってまたホームに静寂な時間が訪れた。
餘部駅は浜坂方面に向かって右側に1面1線のみの棒線駅で、餘部橋梁は駅のすぐ東側に架かる。その新路線の横には旧餘部鉄橋の橋脚や路線の一部が遺構として残されている。また駅裏手にある展望台からは橋梁や餘部集落、香住
海岸が一望でき、絶好の撮影ポイント。駅に戻って長いホームをゆっくり歩くと餘部駅の地元住民と歩んで来た歴史が脳裏を過ぎる。2代目餘部橋梁、これからどんな歴史を刻んで行くのだろうか。そんな餘部橋梁に「頑張りと期待」のエールを送りながら帰りは山陰線・播但線・山陽本線経由で家路についた。