人は誰でも列車や駅に忘れられない思い出があるものだ。可部線文芸賞の「日本一暖かくせつない車窓の言葉」という作品集に26歳の女性がこんな短歌を寄せている。『恋人と2人で降りた無人駅、誰もいない甘い思い出』私もこの文芸賞のエッセイ部門に応募して「吹雪の列車」という作品が入賞するなど個人的にも親近感あふれるローカル線だ。広島県の太田川に沿うように走る可部線。秋のさわやかな季節、山と川に囲まれた沿線は多彩な表情を見せていた。
太田川の川霧から鉄橋を渡る列車、通勤通学客いっぱい乗せて川沿いを走る列車、そんな可部線もここ7~8年で大きく様変わりした。現在の 可部線はJR山陽線の横川駅から可部駅に至る14㎞の単線電化の地方交通線で嘗ての1/4程の営業距離だ。可部線の開業は私鉄大日本軌道による横河-古市橋間の明治42年まで遡る。翌43年には可部駅まで開通し、昭和11年には国有化され、戦後になって昭和44年に三段峡までの60.2㎞が全通した。もともと可部線は陰陽連絡線の一環として広島の横河駅と島根県の浜田駅を結ぶ路線として計画されたが実現の陽の目をみなかった。そんな可部線も平成15年に非電化区間の可部~三段峡の46Kmが廃止になった。それから8年後の平成23年、廃止された区間の約2Kmを電化して復活させる機運が今盛り上がっている。
JR西日本に移行後は乗客の列車離れに拍車がかかり、平成15年11月に可部駅-三段峡駅の46.2㎞が廃止。もともと可部線は2つの顔を持っていた。横河-可部間は電化された都市近郊線としての機能を持ち、朝夕の国道54号線のラッシュを避ける通勤通学客で混雑している。また2003年に廃止になった可部-三段峡間は典型的なローカル線で山間を走るディゼルカーがのんびりと乗客を乗せて走っていた。そんな可部線に久しぶり乗ろうと青空の広がる秋日和の一日、広島駅に出向いた。可部線の列車は広島駅4番ホームから発着していた。
クハ105の電車は広島駅を発車すると左右に広島市街地を見て旧太田川を渡って可部線の起点駅・横川に到着。横川駅は広島市の西の玄関口で2003年には新駅舎にリニューアル。駅ビルにはお洒落な店が入り駅広場東側には広電の路面電車が乗り入れるなど、拠点駅としての機能を備えた交通の要衝だ。
横川駅4番ホームを発車した電車は太田川を渡りトンネルを抜けて3分程で1面2線島式ホームの三滝駅に着いた。ここでは上り電車と交換。この駅から徒歩15分の所に三滝観音があって手軽なハイキングコースとして市民に親しまれている。電車は太田川放水路の西岸を快調に走って安芸長束、下祇園を過ぎ北上を続ける。この区間は車窓から川の風景がよく見え、水の都・広島の景観を楽しむことが出来る。
やがて電車は国道54号線を右に見て2面2線の古市橋駅で上り電車と交換して1面1線の大町駅に到着した。この駅は新交通システム・アストラムラインの乗換駅で1994年に開業した新駅。乗降客の多くはアストラムラインへの乗換で、駅周辺には住宅地が多く広島市のベットタウンとしての役目を担っている。大町駅から3分程で可部線最大の駅前広場を持つ緑井駅に着いた。
緑井駅は1994年アストラムラインの開業に合わせ大掛かりな駅前開発が進み、駅前には大型のロータリーやバス停も新設され、近くにシネコンや緑井天満屋がオープンするなどかつては広島菜の産地として知られていた緑井も今や可部線で最も近代的な街に変身。そして緑井駅も折り返しの列車新設のために行き違い設備を整備し片面ホームから1面2線の島式ホームになった。
電車は緑井駅を発車した後、七軒茶屋を過ぎて太田川下流の梅林駅で列車交換。左手の国道54号線と併走して上八木駅に着いた。この後、右車窓にドームを見て太田川橋梁を渡ると中島駅へ。そして広島駅を出発して40分程で可部駅に到着した。
可部線の魅力は可部~三段峡を走る46.2㎞の山岳路線だ。春に桃・桜・レンギョウの花が咲き乱れる小さな安野駅、可部線北部の拠点駅だった加計駅、そして緑や紅葉の季節に多くの観光客で賑わう三段峡駅等々、山岳鉄道の魅力を満喫させてくれる区間だった。そんな魅力ある路線も時代の流れに対抗できず3年前の2003年に廃線になった。現在の可部線は太田川沿いを広島~可部間を走る都市近郊型の通勤通学路線に変身した。
現在の終着駅・可部の町は中世に築かれた高松城の城下町として発展してきた。出雲・石見街道や舟運の要衝の地として発達し、陰陽の物流拠点の町として栄えてきた。昭和初期の可部は街道沿いの南北約1kmの小さな細長い町だったが道沿いには黒瓦の軒を連ねた町屋作りの商家が並んでいた。そんな面影は今も町のあちこちで見ることが出来る。
時代と共に移り変わるローカル線はややもすれば忘れられがちな沿線の小さな町に、私たちが忘れてはならない日本の原風景、日本人の心が息づいている。可部線はそんな雰囲気と近代都市感覚を持ち合わせた地方交通線だった。